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リアルワールドエビデンスの今:第4回 より良い利活用を目指して

Credit: witsarut sakorn iStock / Getty Images Plus

戦後、日本は復興の一環として国民皆保険制度を導入し、全ての国民が医療保険の保障を受けられるシステムを実現したが、診療請求の仕組みが細分化したため膨大な事務作業が発生することになった。このことは日本の医療システムの電子化を後押しし、世界的にコンピューターが広く普及する以前の1960年代から1970年代にかけて、レセプト(医療報酬明細書)や医療事務のIT化が急速に進んだ。

一時期は医療情報のIT化で世界をリードしていた日本だが、リアルワールドデータ(RWD)の利活用を前提として情報システムの構築を進めた諸外国とは異なり、日本は個々の病院の利便性を追求する形で医療データベースが進化したため、データを二次利用しにくい状況を招いた(本特集第1回「RWEの現状と日本の課題」参照)。

電子カルテ改革

このような状況を変えるために政府が最も注力している施策の1つは、電子カルテの普及と標準化だ。電子カルテは1999年に法的な位置付けがなされ、大病院の9割以上に導入されているものの、一般診療所や200床未満の小病院での普及率は約半分にとどまる。厚生労働省は電子カルテの普及率を2030年度までにほぼ100%とする目標を掲げると同時に、電子カルテシステムや一部情報コードの標準化を進めている。現在は電子カルテ上に保管されているデータの形式が病院によって異なるため、医療機関同士でデータを交換したり二次利用したりすることは難しい。

厚労省はまず、医療現場での有用性が高い6つの医療情報(傷病名、アレルギー情報、感染症情報、薬剤禁忌情報、検査情報〔救急時に有用な検査、生活習慣病関連の検査〕、処方情報)と、これらを踏まえた3つの文書情報(診療情報提供書、退院時サマリー、健康診断結果報告書)についてのデータ交換機能を、国際標準規格である「HL7 FHIR」で統一することを決定し、対応を進めている。さらに、2023年度中に透析情報及びアレルギーの原因となる物質のコード情報、2024年度に蘇生処置等や歯科・看護等に関連する情報についても標準規格化を目指す。

しかし、「ここで進められている標準化の対象はそもそも一次利用で、診療のための情報共有です。創薬などへの活用には、もっと広範なデータ収集と、そのための標準コードの策定が必要です」と、国立国際医療研究センター医療情報基盤センター長の美代賢吾(みよ・けんご)氏は言う。

「電子カルテ情報のうち、健康診断結果やレセプトは既に自治体間やマイナポータルとの連携により情報共有は容易にできますが、粒度が粗く検査結果が入っていないため臨床研究には不向きです。医療従事者がキーボードで入力する診療記録や看護記録などの情報を構造化して入力し、蓄積する仕組みが新たに必要です」と美代氏は話す。

米国政府は電子カルテシステムの普及を進めると同時に情報共有の仕組みを構築し、検査コードは「LOINC」、検査用語は「SNOMED-CT」という基準で電子カルテに入力することを医療機関に義務付けている。これらの規格は他国でも広く共有されているが、日本ではLOINCよりも独自の「JLAC」という臨床検査項目分類コードが主に使われており、SNOMED-CTの管理団体には非加盟である。

診療情報の標準化の重要性については厚労省も早くから認識していた。2001年から標準マスターの作成が順次進められ、現在はJLACを含む26の厚生労働省標準規格マスターコードや指針が作られている。しかし、利用に関する強制力がないため、医療機関での導入は進んでいない。

次世代のデータ入力の仕組み

電子カルテに入力するデータの質を徹底し、標準的な情報に整えることに関する問題の1つは、人材不足である。欧米ではRWDデータを分析用に整える「データエンジニア」や診療現場でデータ入力を行う「アブストラクタ」という専門職種の人材がRWD利活用を支えているが、日本では人海戦術は難しいため、美代氏のチームはテンプレートを構築して医療従事者の負担を軽減しながらデータの品質を保つ仕組み作りに取り組んでいる。

国立国際医療研究センターと日本糖尿病学会は共同で、2014年度から診療録直結型全国糖尿病データベース事業(J-DREAMS)を進めている。糖尿病診断でカルテ記載が必要な項目を学会が定め、テンプレート化してベンダー各社の電子カルテに組み込んだ。これまではデータを研究に使うには医師が別途データベースを作成する必要があったが、このテンプレートにより、診療記録の一部としてデータ入力ができるようになった。匿名化されたデータは自動的にクラウドセンターに収集される。2022年5月時点で69医療機関が参加、8.3万人の患者の2023万件の検体検査値と799万件の処方情報が蓄積されており、検査情報や薬剤情報だけでなく、合併症情報なども比較検討できるようになった。

J-DREAMSの仕組みを発展させたプロジェクトが、「電子カルテ情報を活用したリアルワールドデータ収集・提供基盤の構築事業(JASPEHR Project)」である。美代氏が「世界でも先端的なデータベース構築の取り組み」と言うこの事業には、国立国際医療研究センターを含む6つの国立高度専門医療研究センター(NC)が参画し、がん・難病ゲノムおよび感染症の臨床情報のコードを統一して、テンプレートを作成する取り組みを始めている。例えばNCはバイオバンクに約10万の血液サンプルを有しており、電子カルテデータの情報を組み合わせることで、新しい治療法の開発が期待される。

現在、検査項目は3000~4000ほどあるが、その全てを標準コードと対応させるのは相当な労力を必要とする。そのため、JASPEHR Projectの研究チームは研究や治験によく使う約200項目を標準コード化し、日本全体に普及させることを目指している。「電子カルテから直接データを抽出し、審査資料とすることができれば、SDV(Source Data Validation)などの業務が圧倒的に効率化され、製薬企業の負担も軽減されると思います」と美代氏は言う。

変革を起こす難しさ

電子カルテから臨床データ収集を行う仕組み作りには京都大学も積極的に取り組んでいる。京都大学は産学連携で「CyberOncology」というアプリケーションソフトを開発し、がん薬物治療に関するデータ入力の標準化と構造化を可能にした。このアプリは「臨床ゲノム情報統合データベース事業(2016~2018年)」で使用され、国内7つのがんゲノム医療中核病院の異なるベンダーの電子カルテ情報を統合することに成功し、日本のRWD収集の基盤を構築した。

CyberOncologyを使うことにより、医師は電子カルテに直接入力するだけで日常の診療記録だけでなく、C-CAT(がんゲノム情報管理センタ−)に提出する情報も自動的に作成できるようになった。現在は大学発ベンチャー企業「新医療リアルワールドデータ研究機構株式会社(PRiME-R)」を通じてCyberOncologyの全国の病院への導入を進めており、2021年から25の医療機関と共同で前向き観察プロジェクト「CONNECT」を開始した。

しかし、CONNECTは予想外の困難に直面する。当時の京都大学の倫理指針に則った同意取得や事務手続き、電子カルテとCyberOncologyの連携に時間がかかり、あらかじめ雇用したアブストラクタの契約延長が叶わず、登録と入力が医師任せになった。胃がんの症例については学会の強い協力もあり多くのデータが集まったが、日々の診療に忙殺される大多数の医師は入力に消極的で、登録症例数は当初の予定であった5000例を大幅に下回っている。さらに、当時の倫理指針や個人情報保護法の解釈では収集されるデータが統計情報のみで、研究への有用性が低かった。

今年3月に京都大学の倫理指針が改定され、研究チームは、新たに後ろ向きの試験デザインを立案し、悉皆性のある院内がん登録情報をベースに、レセプトデータやDPC(診断群分類)データ情報を参照し、バイオマーカーや治療歴を電子カルテから自動的にCyberOncologyに収集する「CONNECT-2試験」を10月に立ち上げた。本試験では、RWDが収集されることで、統計データの壁を越え、さまざまな詳細な分析が可能になると研究チームは考えている。

「過去20年の間に、医学的研究や公衆衛生の向上のために必要な法整備を進め、データ整備を国が指導して電子カルテの標準仕様としていれば、CONNECT試験みたいな回り道は必要なかったと思います」と、CyberOncologyの考案者であり、CONNECT試験を担当する京都大学大学院医学研究科特定教授の松本繁巳(まつもと・しげみ)氏は話す。

「ある土地に自由に住まわせて、後で区画整理をするのは本当に大変です。これが日本のRWDの源である電子カルテの現状であり、この状況を試練と考え、最新の技術を駆使して電子カルテから『エフォートレス』で有用な情報を二次利用出来るシステムの構築を目指していきます」。

全ての人が恩恵を享受できるために

RWD利活用の整備が進む中、行き過ぎた効率化や「標準化」「構造化」という言葉は、データを提供する側にとっては時として高圧的に感じる危険性をはらんでいる。

「提供されているデータは患者さんの命の記録であり、それを日常業務上の必要性に迫られて医療従事者が記録したものです。そしてこれらのシステムは、情報技術者による開発・運用・保守稼働があってこそ成り立っています。しかし、データサイエンティストを含めた二次利用者はデータ分析以前の過程を忘れがちです。その結果、『私たちが使いやすいデータを提供しろ』と発言しているようにしか響かないことがあるのです」と、京都大学大学院医学研究科・医療情報学教授の黒田知宏(くろだ・ともひろ)氏は警鐘を鳴らす。このような傾向は、政府や学会が主導するプロジェクトの一部に特に見られると黒田氏は言う。

適切な対価を払うことなく求め続けると負担ばかりが増し、疲弊した医療従事者が入力するデータに欠損が生じ、システムを支える人材の流出が進む事態になりかねないと黒田氏は危惧する。「医療ITエンジニアの流出は世界的に深刻です。日本でも、入力負荷が限界を超えたために失敗したケースとしてHerSys(新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理支援システム)の例は記憶に新しいでしょう」。

さらに、患者の理解が得られないと多くのオプトアウト(個人情報の第三者提供の停止を求めること。求めないかぎり自動的に情報提供が続く)を招くことになり、社会的批判が高まり疫学研究全体が成り立たなくなる可能性もある。例えば、オーストラリア政府が2018年にMy Health Recordという個人医療情報管理システムの登録をオプトイン(個人情報の第三者提供に関し事前に同意を得ること)からオプトアウトへ静かに移行しようとしたとき、個人情報保護の漏えいの懸念から批判が相次ぎ、国民の10人に1人が登録されることを拒絶する事態に発展した。

日本では次世代医療基盤法により、ある一定の要件を満たしたオプトアウトが認められている。現在のオプトアウト率は0.5%未満であるが、国民の間では個人情報保護の懸念が根強いため楽観視はできない。

「まず、医療従事者や患者さん自身がそのシステムを導入することで負担が減ったと感じる仕組みを作らなければなりません。双方に多大な労力とコストがかかっている行政書類の提出に関わる作業を『ワンクリック化』や『自動化』する仕組みを国全体として導入して、そのデータを二次利用させてもらえれば、自然に質の高いデータが利用できるようになるはずです」と黒田氏は言う。

「その上で、RWDを誰かに作らせようとするのではなく、社会全体のコンセンサスを整えることを考える必要があります。そうでなければ、現在の二次利用が進まない状況は改善されがたいでしょう」。

次世代を切り拓く人材育成

生データをRWD分析に堪え得る質に仕上げるためにはさまざまな工程と専門スキルが必要だ。文部科学省が2019年度に開始した「医療データ人材育成拠点形成事業」ではRWD利活用にかかわる一連の工程を理解しマネジメントできる人材育成を目指し、その拠点として東京大学と京都大学が採択されている。

「どのような状況でデータが発生し、どのような意味を持っているのかを知らなくてはいけない上に、そのデータの操作や解析基盤の構築、医療特有のコードなどの知識、さらにはデータを操作するエンジニアリングに近い技術知識も必要となります。非常に高度な人材育成を目指しています」と、東京大学と4つの連携大学が行っている「医療リアルワールドデータ活用人材育成事業」で教育プログラムを担当する関倫久(せき・ともひさ)氏は説明する。

東京大学は履修証明プログラムであるが、京都大学を代表校とする「関西広域 医療データ人材教育拠点形成事業」は関西広域の計13大学で編成され、臨床統計家に必要な知識、技術、態度を身に付けるための2年制の専門職学位課程である。同事業は京都大学がNTTなどと立ち上げた「リアルワールドデータ研究開発講座」とも連携しており、実際の医療現場で必要な実務知識も学ぶことができる。京都大学は博士課程教育にも力を入れるため、2022年に医療DX教育センターを設立した。

政府の支援は予算編成の都合上3~5年と短期的になりがちで、その後は大学や研究機関が自助努力で事業継続を行わなければならない。しかし、本当に日本がRWDの利活用を進めるならば長い目で見た人材育成が不可欠だと、東京大学医科学研究所国際ワクチンデザインセンター長の石井健(いしい・けん)氏は語る。

同センターは、次のパンデミックの際に迅速なワクチン研究開発・供給に貢献できる人材育成をミッションの1つに掲げている。現代のワクチン開発研究には約20年の歳月、1000億円以上の予算、10万人以上の被検者が必要とされるといわれており、RWDを利活用する重要性は今後ますます高まることが予想される。

米国や英国は同時多発テロ以降に急激に予算を増加させ、感染症免疫ワクチンの研究開発を後押ししてきた。そのため、20年後に起きたパンデミックでは世界の先陣を切って対応することができたが、日本は感染症研究への予算を縮小し続けていたため準備が全くできていなかった。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の対応で後手に回った経験を踏まえ、政府はワクチン開発・生産体制強化戦略として2021年度と2022年度に計9100億円超の予算を計上したが、補正予算での対応であり、持続性が見込めない。「想定外のパンデミックが来たときに慌てず対処できる人材を育てることが一番大事ですが、そのためには長い時間がかかります。私たちは10年後、あるいは20年後までのプランを立てないといけないのです」と石井氏は言う。

実践につながる高度教育も、早い段階からデータに親しみ、データに興味のある若い世代を増やすことが前提となる。そのためには義務教育から働きかけることが今の日本に最も必要なのではないか、と医療データ会社JMDCの創業者である木村真也(きむら・しんや)氏は話す。木村氏は2002年に同社を立ち上げ、当時紙だったレセプトを健康保険組合から集めてデータ化し、レセプトデータを用いた研究・調査の発展に貢献した日本のRWD利活用の先駆者である。

「データは医療だけでなく社会全体の動きを反映し、これらは変化し続けます。人に興味を持つことがデータへの関心につながります。高度な統計学や疫学なども大事ですが、小学校の高学年くらいから教育していく必要があると思います」と木村氏。

「国民皆保険について説明できる人がどのくらいいるでしょうか。これら制度を学び、その延長として疾病についての理解を深め、医療データから分かることを学ぶ機会を早いうちから作るのがいいと思います。裾野から広げていかないといつまでたっても自転車操業が続くでしょう」。

Nature ダイジェスト Vol. 20 No. 12

DOI: 10.1038/ndigest.202312.pr